ムラ・アイデンティティ

集落マニアによるブログです。「街の見方を知ったら、街はもっと面白くなる。」

漁師の家はどこに設けられるのか|宮城県・石巻市侍浜

今回は家の立地の話。漁師の家はどこに設けられるのか?そしてどんな特徴があるのか?

今回の舞台は宮城県石巻市、侍浜。

 

石巻市東日本大震災で大きな被害を受けた地域である。

筆者がちょうど大学を卒業するタイミングで東日本大震災が起こり、大学院に進学した2011年度から継続的に石巻を訪れ、復興支援のお手伝いをしてきた。名古屋に居を移した現在も定期的に訪れ続けている。

震災復興初期は、大変な状況にある人々に話を聞き、いろいろな図面を引いたり様々な活動をしてきた。一方で、土木が先導する復興に関する違和感も同時に感じた。

そこで目を向けたのが侍浜。

多くのムラが被害を受ける中、津波の被害が軽微で、集落景観が残されていた地域であった。

地域の生活文化や暮らしをきちんと学び未来を紡ぎたいとの思いが芽生え、小さな集落の成り立ちを調べたことが、

筆者の「ムラ」との出会いであった。 

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侍浜集落全景(2012年・筆者撮影)

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侍浜集落の起源は定かではない。

口伝によると、奥州葛西氏の落ち武者が集落を成したという説や、

慶長年間に隣浜の月浦で支倉常長出帆の船が建設された際の監視役の侍が宿としていたという説などがある。

ただ、それなりに古い歴史を持つ集落であることは間違いがなさそうだ。

 

さて、三陸沿岸は過去に度重なる津波被害を経験してきた地域である。

東日本大震災(2011)、チリ地震津波(1960)、昭和三陸地震津波(1933)、明治三陸地震津波(1896)、慶長地震津波(1611)などがある。

ちなみに上述の支倉常長出帆は、被害を受けた浜の人々に仕事と希望を与えるための伊達政宗の大事業であったとの説もある。

明治三陸津波からの120年の間に、実に4回も津波を経験している津波常襲地域で、明治以降どのように集落が変遷してきたのかを調べてみた。もしかしたら、津波に強いムラの作り方、なんてものもあるのかと期待して。

 

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明治時代の土地利用・法務局より入手

 

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チリ地震津波前の集落・住民提供

 

明治時代の旧地籍図をみると、2本の沢筋にそってムラが形成されているのがわかる。西側の奥まったところと、東側の海沿いのところに家々が並ぶ。上下水道が通る前はさわが水道であり下水道。だから沢沿いに集落は発達するのが基本。そして沢をつなぐ方向に道ができるのも基本。これで山との境界に神社なんがあったりしたら、まさに昔ながらだな...って思う。

そんな侍浜の家は、東西でちょっと趣が違った。西側は東日本大震災での被害もなく、江戸時代から現在まで浜に住み続けている本家筋の家だった。一方東側は過去の津波被害を繰り返し受けてきた地域で、津波被害を受けると図面の上部に家を移した。沢路沿いに上へ上へと伸びて行くのが津波に対して最も効果的な対策だが、そこから下に戻ってしまい被災してしまった、というのを繰り返してきたのが三陸沿岸部。

侍浜ではそういったことはあまり起きなかったが、西側とは対照的に東側は、昭和頃のどこかで集落を離れたり住み継がれなかったりして現在では古い家はあまり見られない。その代わり現在の東側には、西側からの分家や浜の外からの移住者の家が立ち並ぶ。

 

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(2012年・筆者知人撮影)

 

空間としてこれらの違いを最も顕著に伝えてくれるのが、この狭い路地。漁村特有の細い道は、道路が通る前から、連綿と続いてきた軌跡。建築物としてはそこまでふるくなくとも、道と織りなす空間体験は多様である。狭い道をくねくねと歩いて、ふっと海が現れる漁村の見えは心が踊る。侍浜の場合、小高いからの海への眺望なので、その海の美しさはひとしおである。きっと古くからこの景色を好んだ地域の有力者が住んだのだろう。実際に牡鹿半島の昔の地図をみたり、現存する集落を歩くと、小高い丘の部分に地域の有力者の家がある。

 

何気なく歩いていると気づかないけど、よく調べるとわかってくる。そんな空間の秩序を知ると、漁村の歩き方は少し楽しくなってくる。