ムラ・アイデンティティ

集落マニアによるブログです。「街の見方を知ったら、街はもっと面白くなる。」

重厚な屋根と堅牢な建築|対馬の石屋根

以前の記事で書いたスレート屋根の地域・石巻市雄勝町は、実は日本の中で5指に入る有名な石を使った建築の産地。

石の建築で有名なのは、

・宮城の玄昌石(スレート屋根)

・栃木の大谷石

・長野の鉄平石

・東京のコーガ石

があげられる。

今回はこれらの一つ、対馬の石屋根のお話。

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日本と韓国の中間くらいにある対馬。島国では、島の中のものを使って建物を建てることが多い。奄美大島もそうだったが、だからこそ独特の島の建築文化が形成される。

対馬で形成されたのは、大きな石の屋根。島の中で取れる材でできた屋根は、同時に堅牢な建築構法も生み出す。柱は平柱という長方形断面のもので、床は少し上がった穀物をしまえる工夫も。

強風でも屋根は飛ばされることはなく、ちょっとやそっとの火災からも大きな石の屋根が守ってくれる。堅牢な建築は長い間地域を守ってきた。

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家から少し離れたところに小屋を建てる「群倉」。これも離島や辺鄙な地域の生活の知見。万が一家に被害があっても、倉に食べ物や生活に必要なものが残る。だから家から離れた、災害のリスクの小さい場所にまとめて倉を設ける。

 

対馬、生活の知恵がたくさん。

 

中世から続く三陸沿岸のムラ|宮城県石巻市雄勝町大須浜集落その1

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東日本大震災から丸8年が経過した。

震災の爪痕は大きく、失われたものは多い。震災後、石巻で様々な活動をご一緒する機会に恵まれた筆者にとっても考えさせられることは多い。失われた人命が何よりの損失であり、最も大切なものであったことは論をまたないが、同時に美しい建築や集落が失われてしまったのも悲しい現実である。

三陸沿岸部は昔から津波被害に悩まされてきた地域であり、古くは江戸時代の慶長の津波、明治、昭和、チリ津波と続く。正確な記述は少なくなるが、その前も幾度となく被害を受けてきた地域である。

一方で、三陸沿岸部は世界三大漁場の一つに数えられる恵まれた漁場を有するため、古くから人が住み着いた地域であり、文化的尺度は極めて長いと推測される。昔からの景観を伝える地域の価値は決して軽視できるものではないだろう。

 

石巻市雄勝半島の大須浜集落。三陸沿岸に残る美しい漁村集落である。大須浜は、微高地上に位置するため、昔ながらの敷地割りや民家が残る漁村集落が存在している。

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このムラ、狭い路地の中に民家がぎゅっと形成されている。道を歩いているといつのまにかどなたかの家の玄関にたどり着き、前庭を通って隣の道に向かう。どこからどこまでが私有地なのかわからない。道を歩くといたるところに井戸があり、前庭には魚をさばける屋外水道があったりする。今も現役の共同井戸もある。塩の香りと昔の趣を感じる。そんな地域。

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そろそろこのムラのベストシーズンが始まる。

濃厚な潮の香りが口の中に広がる絶品のうに。ムラの中の民宿で食べられます。昼は美しい集落を堪能し、夜は美味しい海産物に舌鼓を打つ。そんな幸せな休日はいかがだろうか。

産業景観ータバコ産業が生み出した集落景観ー|福島県船引町

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日本の住居史は、竪穴式住居から始まる。その後も長らくこの住居形式が庶民の住居であった。中世の頃には掘立小屋のようなものが西日本を中心に出てきたと推測されている。この頃の居住の跡は柱のみで、穴を掘っていた時代と比べると、痕跡を発掘することはとても難しいが、一般的にはそのような家の造りであったと考えられている。ここまでが考古学とか歴史のお話。

建築は実体のあるもの。現存する最古の民家は室町時代のもので、3軒存在している。空間の特徴としては、大部分が土壁に覆われることによる暗い空間が指摘できる。建物を建てる技術的な側面と戦乱の世という文化的側面が、家のふるまいを閉鎖的にしていた。

その後、江戸時代頃になると庶民の家は、木造が主流となる。合掌造りや棟木造りに加え、和小屋と呼ばれる複雑な架構も登場する。

江戸時代の家はどこの地域も稲作を基本としたもの。そのため、家の大きさや民家形態に大きな地域差は生まれず、大きさや屋根の架構が違いの主流であった。

 

明治時代になると民家形態は一気に多様化する。民家形態に多大な地域差を生じさせたもの、それは産業。

財産のあり方が年貢米から税金に変わると、養蚕業や煙草業など、換金できる仕事が重要視されることになる。お金を得るために産業に適応した形に民家が変化し、お金を得るが故にその建築が強化されていく。

そんな理由で日本は大きく変化していくが、日本の民家に最も大きな影響を与えたのは養蚕業。そして今日の主役のタバコも、暮らしにさまざまな変化を与えたもの。

 

タバコ産業は、結構多様な建築を生み出している。

ベーハゴヤ

と呼ばれる建築は、四国などでよくみられるこの建築は、米国の葉の小屋。非常にかっこいいので、いつか見に行きたいな、と。

茨城のタバコ乾燥小屋は火を焚き乾燥させる。コンパクトながら高い屋根の空間は神秘的でもある。

 

今回紹介する船引は、自然乾燥を主とした生業形態。

山に挟まれた狭小な平地で田を植え、里山を有効に活用することで集落を形成してきた。

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 最も低いところには田を植え、家までの動線の間に板倉を設置する。大きな家は、かつて養蚕をしていた証左。蚕の餌として後ろの斜面には桑を植えており、山の裏口から2階に入れるような家も確認できる。家の横には土蔵がおいてあり、大切なものをしまっていた。


そして右に見える黄色と銀の小さな建物が「タバコヤ」と呼ばれる建築。

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船引ではタバコは自然乾燥させている。だから、最も日当たりのいい箇所を写真のように芝にして、お日様の光で乾燥できるような干し場を設ける。でも雨がふったら折角の乾燥が台無しになる。そのため、すぐに逃げられるようにすぐ近くに「タバコヤ」が設置されている。昔は茅葺。なんとも愛らしい建築。

 

家っていうと、敷地があって、庭があって、と考える。でも船引は、家のラインが極めて不透明。きっと田んぼも山も家の領域なんだろう。里山の暮らしはおおらかで、産業が暮らしを支えていた。ただの何気無い田舎の風景も、その産業構造を知ると、より味わい深い景観として見えてくる。

産業が生み出した美しい景観。

生きるための知見、ソテツバテ|鹿児島県奄美大島

ソテツバテ。

 

これは、食糧難の時代を生き抜いた離島の知恵。台風銀座、奄美大島の文化的景観です。

 

 

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離島の海岸沿い。台風がよく通る地域。

その昔、離島は食糧を得るのがとても大変。だから自給自足が大原則。生きるためにはもちろんコメが必要。だから稲作をする。でも、稲作の収穫は秋なので、その前に大変なシーズンがある。

それは夏場の台風。

もし台風がきたら、稲は全てなぎ倒される。その年の食糧がなかったら、一気に飢饉になる危険性がある。だから、大切な稲や畑を守るため、畑や稲の周りに風に強いソテツを植えた。

と、いうことでできたのがソテツに守られたバテ(ハタケ)、ソテツバテ。

 

ソテツバテの凄いのは、どれだけ守っても守れない時の備えでもあったこと。想定外を想定した先人の知恵。万が一、ソテツバテでも守れない災害が来た時、ソテツバテの中の作物はなくなる。でも、ソテツ自体は生きている。最終的な危険の際には、食べられる。それがソテツ。

エディブルランドスケープと呼んでいるこのような生活文化。

先人の知恵。

飛騨の板倉|岐阜県種蔵集落

飛騨に「種蔵」という集落がある。

山に守られ、棚田と板倉が織り成す美しい風景。

まだこんなに美しい地域があるんだ、と思う。

 

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飛騨古川から更に北に行ったところ、川に沿った県道を登っていく。ムラは人の住むところだから、通常、ムラは道沿いに位置する。ちなみに道は車を手にした我々現代人が作り上げたもの。車ができる前には自然要素が交通の要衝だった。それは川であり、谷であり、尾根であった。道で繋がった集落は文化の交流があり、人や物が流通する。

一方、種蔵は県道から更に山に入って行ったところにある。県道からは見えないから秘境感が満載。車を使っても、奥地だなぁ、と感じるのだから、乗り物のなかった時代は、もっともっと奥地だったのだろう。

 

種蔵の名前の由来にはとあるストーリーがある。

その昔、街場に近いムラムラでたいそうな飢饉にあったらしい。川や道で繋がったムラムラは、流行病にあったり、世俗の影響を受けやすい。周辺の多くのムラが飢饉にあえいでいる中で、人里離れた場所にある種蔵には影響がなかった。

周辺のムラが困難にあるということをしった種蔵の住民は、蔵の中から食べ物の種をだし、周辺に配ったという。それゆえに、「種蔵」と名付けられた。

 

交通の便が悪い種蔵は、同時に、自給自足的側面も多い。そこに住む人々は生活の知恵が豊富で、生きる力が強い。畑を耕し、棚田を管理し、山菜やキノコなどの山の幸をいただく。焼畑や蕎麦なども行うし、炭焼きや林業なども行っていた。身の回りのものは全て生きるための資源として扱える。

種蔵の人々は色々な備えを持っている。狭い土地の多くを食糧生産にあてたい種蔵では、家を3階建にしている。建物の中はかつては養蚕という産業で使われていた。家であり、お金をえる仕事場でもあるから、大きい。

 

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家から少し離れたところには、木でできた倉「板倉」も持っている。食べ物とか大切なものを、家から離れた場所に設ける場所。その昔、茅葺き屋根だった時の家は、とても燃えやすかった。家が燃えてもクラは残る。そんな生活の知恵。各世帯は離れた場所に複数の蔵を有している。

 

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人里離れた素敵なムラ。

冬季は豪雪地域のために閉鎖していますが、春から秋にかけては、とても美味しい里山料理もいただけます。

 

茅葺き民家のマド|茨城県筑波山麓の民家

日本の民家、といって頭に浮かぶのはどこでしょうか?

 

白川郷?大内宿?

おそらく茅葺の家は、なんとなく頭に浮かぶと思う。

今回は、そんな茅葺民家のマドに関するお話。

 

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都市部に住んでいると気づかないけど、茨城の田舎に住んでた時は、身の回りに綺麗な茅葺があった。茅葺は、おそらく日本人の原風景であり、そして、山の近くに住んできた山間民族、日本人の特性な気がする。

でもそんな茅葺って、どんなものなんだろう?昔ながらの暮らしは、どんな風に営まれてきたのか?

 

今回は、開口部と言われるマドについて考えてみる。

東西南北の壁面におけるマド部分の割合を調べた結果が下の図。

 

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左上の図からわかることは、今回調べた対象民家の点線をみると、南面開放だということがわかる。

続いて右の図は、平地部と山麓部で傾向が違うのか、という調査。平地の方が若干マドを大きく儲ける傾向にあるが、そこまでの差はなかった。

間取りを考えて見たのが左下。山麓の民家のうち、増改築があんまり行われていないと考えられる長方形の場合と、長方形に増築なのかぽこっととついた形の場合を調べてみた。すると原型と想定される長方形は南開口が多く、生活空間を増やす改修は、原型以外の方位にもマドを設ける傾向が見られた。

最後に時代別の図面を見てみると...。もっとも古い年代は、マドは小さく、南に少しあいていることがわかる。元々の日本人の暮らしは暗く、土壁に守られたものだったのです。続いて、19世紀のものはマドの割合が増える。西側に開いているのも特徴です。そして現代のものは、全体に大きなマドを持ち、かつ、南を大きく開くという傾向が出てきた。

 

茨城県は大きな面積を持つ起伏の小さな県。つくば市も広大な田園風景が広がる。そのため、広大な敷地の中に大きな家が設けられる傾向にあり、家は密集することなく、好きな方位を向いて建てられる。

だから、家は基本的に南面を多く取れる東西を長手にした平面とし、南にマドを多く持つ。光に包まれた、シンプルでいて、贅沢な暮らしなのかもしれない。

 

昔ながらの暮らしの知恵が内包された民家。美しいだけでなく、懐かしいだけでなく、美しいだけでもなく、実は機能的。

そんなことを知っておくと、民家の見方もちょっと面白くなるかもしれない。

 

今回の記事は、「佐藤布武、董梁、橋本剛:茨城県南地域における伝統的農家住宅の開口比 立地特性と平面形態に関する考察」という題目で発表したものが元になっています。

火災からムラを守るイキグネ|茨城県大増集落

茅葺民家は夏を涼しく、冬を暖かくしてくれる自然素材の家。

でも、だからこそ、火災にはめっぽう弱い。

今回は、火災でムラが焼けてしまい、その知見から常緑樹でぐるっと敷地の周りを囲った家が連続する集落のお話。

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集落内を歩くとこのような景観。モチノキでできた高生垣は住居をすっぽりと隠している。見事に刈りそろえられた木々は、毎年住民たちによって整えられるという。

 

ではなぜこのような景観が形成されたのか?

 

オオマスコマスコマリマスコンドモエタラコマリマス

 

その理由は、この暗号みたいな地域に伝わるフレーズにある。

漢字にすると、

大増(小増)困ります。今度燃えたら困ります。

 

その昔、茅葺民家の集落は、火事によって全焼してしまった。その経験を二度と繰り返すまいと思った先人は、敷地の周りや建築物の隣に、水分が多い常緑広葉樹のモチノキを植え、高生垣を形成し、火災に備えた。

その結果生まれたのがこのムラ。

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家が密集したところでは、高生垣の迷路みたいな空間が、集落の外縁部に行くと、広々とした中に凛々しくそびえ立つ高生垣の全景が見れて、それはそれで面白い。

また、日陰を作るとともに風を通してくれるため、夏は集落内が涼しくなる。

ここ大増に限らず、茨城県には民家や蔵の周りに緑の垣根が設けられることが多い。緑の垣根には様々な環境調節効果もあるんです。

静岡などにも多く見られるし、風が強いところでは緑の生垣は多く見られる。山形には食べられる生垣なんてものもあるし、日本全国に、様々な意味を持った生垣が存在している。

家の周りの緑の意味、想像すると面白いかもしれませんよ。

 

※今回の記事は、「豊川尚、佐藤布武、橋本剛:夏季における伝統的な生垣が集落機構形成に及ぼす影響 茨城県石岡市大増集落における事例」という題目で発表したものが元になっています。