ムラ・アイデンティティ

集落マニアによるブログです。「街の見方を知ったら、街はもっと面白くなる。」

大船渡市震災遺構 茶茶丸パーク時計塔

岩手県大船渡市震災遺構茶茶丸パーク時計塔 震度6弱の地震がここ大船渡市を襲い、最大11.8mの津波がこのまちを飲み込んだ。この時計塔は街のシンボルとして大船渡の中心部の海が見えるにぎやかな商店街に整備され、市民の待ち合わせ場所や憩いの場として親しまれた。

しかし、津波の被害に遭った午後3時25分で時の刻みを終え、津波の到達時刻を象徴する震災遺構として、現在は夢海公園の敷地内に移設され保存されている。

大船渡市 茶茶丸パーク時計塔
(2026年 3月 筆者撮影)

震災後は海沿いに長く高い防波堤が整備され、かつてまちから見ることができた海と山々の風景は見えなくなった。過去から学び、景観を犠牲にしても命を守る。そんな力強い意志を感じた。

震災後整備された防波堤
(2026年3月 筆者撮影)

 

防波堤の上、東日本大震災で津波が到達した地点に震災の記憶を決して風化させることなく未来への教訓とする象徴的な場として「祈りのモニュメント」が設置された

祈りのモニュメント
(2026年 筆者撮影)

祈りのモニュメントは海を眺めながら祈ることができるようガラス素材が使用され、大船渡市の十の町を意味する十本の柱で支えられている。市民みんなで未来を支えあう意志が表された。

 

防波堤を上るスロープには、過去に起きた明治三陸地震、昭和三陸地震、チリ地震津波で到達した津波の高さが刻まれた津波伝承碑が設置され、上りながら過去の津波の高さを歩きながら体感することができた。

スロープ上に設置された津波伝承碑
(2026年3月 筆者撮影)

スロープを上りながら過去の津波の高さを体感し、祈りのモニュメントにたどり着く。過去の津波と比べ、東日本大震災は過去に類を見ない高さの津波がまちを襲ったのだ、と感じる。

 

震災当時の時刻のまま止まる茶茶丸パーク時計塔と、海が見えなくなるほど高く、過去の津波到達高さと東日本大震災の到達高さを表す祈りのモニュメントが設置された防波堤。過去の記録や時間を震災復興施設として残し、未来への教訓とする。と、震災遺構として岩手県大船渡市はメッセージを残す。

(名城大学佐藤布武研究室)

陸前高田市震災遺構 旧下宿定住促進住宅

陸前高田市震災遺構 旧下宿定住促進住宅

写真1:旧下宿定住促進住宅 正面(筆者撮影2026年3月)

写真2:旧下宿定住促進住宅 側面(筆者撮影2026年3月)

この建物は津波によって外装や設備が大きく損傷し、多くの窓ガラスや手すりが失われている。整然と並ぶ住戸の開口部は内部をむき出しにし、かつて人が生活していた痕跡だけが残されている。規則的に続く住戸の反復は、その空虚さをより強く際立たせている。

また、5階部分では手すりが比較的残っているのに対し、それより下の階では多くの手すりや設備が失われている。この差や側面の壁の色の違いから、津波がどの高さまで到達したのかを読み取ることができ、建物の残り方そのものが当時の状況を生々しく伝わってきた。

今ある生活は当たり前ではない。いつこの日常が壊されるかわからない。隣にいる人やいつも使っている道具が突然いなくなってしまうかもしれない。

私たちが送っている日常を大切にしなければならない。

 

写真1:筆者撮影2026年3月

写真2:筆者撮影2026年3月

 

(名城大学佐藤研究室)

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館(宮城県)

(写真1)津波被害を受けた旧校舎(筆者撮影・2026年3月)

宮城県気仙沼市にある「仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」は、かつて宮城県気仙沼向洋高校として使われていた高等学校の旧校舎である。

 

2011年の東日本大震災で被災し、気仙沼市では震度5強から6弱の揺れに襲われ、その揺れの強さは校内のプールが大きく波打ち、電線がうねるほどであったそう。

現在はそんな旧校舎が気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館として公開されている。

 

(写真2)震災当時のまま残されたCAD室(筆者撮影・2026年3月)

(写真3)南校舎のとある教室(筆者撮影・2026年3月)

旧校舎に入ると、当時どのような教室であったのか説明を聞かないと想像もできないくらいに教室は瓦礫でいっぱいであった。震災の爪痕がこれほど鮮明に残っているという事実と、冷たい風が吹く教室に言葉を失った。床には大量の教科書や参考書などが散乱しており、当時、震災が来る直前までは確かにそこに生徒と先生がいて、楽しそうに話す声などが想像できた。

 

(写真4)3階にまで流されてきた車(筆者撮影・2026年3月)

3階に上がると、そこには車の残骸の見られる展示があった。それは津波によってこの高さにまで流されたもので、この高さにまで津波は軽々と超えてきたという事実に恐ろしさを覚えた。

(写真5)屋上と津波で流された屋内運動場(筆者撮影・2026年3月)

津波は4階にまで達したとされ、生徒と教員は屋上に避難したが、それでもすぐそばにまで津波が来ている状況でこれ以上津波が上がってきたらと思うと、逃げ場のない恐怖感に襲われたと思う。

 

そして、屋上から見えるのは一階部分のRC部分のみが無惨にも残った屋内運動場が見えた。震災前には確かに、二階部分のドーム部分があったそうだが、その姿は想像もできない。

 

この場所を訪れて、当たり前の日々が突然失われたことがあるという経験と、この悲劇を繰り返さぬようこの教訓を次世代につなぎ、少しでも前へ進むことの大切さを感じた。

 

(名城大学佐藤布武研究室)

陸前高田 東日本大震災遺構・津波伝承館

陸前高田 東日本大震災遺構・津波伝承館

旧高田松原道の駅 (筆者撮影2026年3月)

かつて岩手県陸前高田市の景勝地、高田松原の観光拠点として賑わっていた。しかし2011年の東日本大震災による津波にて大きく損害した。写真の通り外壁は剥がれ、当時ファサードを形作っていた庇や壁材の多くも流されてしまった。かつての観光施設としての賑わいとは対照的に、どこか味気なく無機質な印象だけが残されていた。当時の津波の高さは14メートル。建物横に記されていた。

この建物をもう少しで飲み込む高さ。この建物を目の前にしている自分たちはもちろんのこと、低い建物では逃げることができない恐怖を痛感した。

 

裏手のステージ(筆者撮影2026年3月)

旧高田松原道の駅の裏手にある当時の屋外ステージだ。現在は広大な芝地と開けた空間が広がっているが、かつてこの場所の背後には高田松原の松林が広がっていた。海岸に沿って続く森は地域の象徴的な風景であり、防風・防潮の役割も担っていた。しかし2011年の東日本大震災による津波によって松林の大半は流失し、現在はかつて森があったことなど嘘に感じるほど、開放的な風景へと変化している。

陸前高田ユースホテル跡(筆者撮影2026年3月)

2011年の東日本大震災による津波の力によって、建物の一部は押し流されるように大きく変形し、構造体が折れ曲がるように傾いた状態で残されている。本来水平であるはずの床や屋根のラインは崩れ、水辺に沈み込むような姿となっている。強固であるはずのコンクリートの建築がここまで変形してしまう様子からは、津波という自然の力の恐ろしさが強く感じられる。

 

東日本大震災津波伝承館(筆者撮影2026年3月)

館内では、津波の被害状況や当時の映像、被災した人々の証言などが展示されており、震災の記憶とそこから得られた教訓を学ぶことができる施設となっている。また建物は周囲の公園や景観と一体となるように計画されており、近くに残る 奇跡の一本松 や震災遺構とともに、震災の記憶を伝える場所として位置づけられている。写真を見る通り、非常に開けた空間となっており、建物も低く水平的に広がる構成となっている。広い空と地面が強く意識される景観の中で、水平に伸びる空間が、かつてこの場所を覆った津波の広がりを想像させるようにも感じられた。実際の被災地に立ち、その風景の中で震災の痕跡や空間の広がりを体感することで、震災の記憶をより強く感じた。

 

(名城大学佐藤布武研究室)

 

 

石巻市震災遺構 大川小学校

石巻市震災遺構 大川小学校

かつて昇降口があった場所(筆者撮影 2026年3月)

宮城県石巻市にある大川小学校は、東日本大震災で震度6の揺れを受けたのち、川を遡上した津波によって全校児童108人のうち74人が命を落としており、学校の管理下で子供が犠牲になった事件・事故として前例のないほど悲惨なものとなった。

現在も震災復興施設として校舎が残されており、周囲から見学することができる。

震災前の校舎(これまで、ここから~大川小学校のことhttps://korekoko.blogspot.com/p/blog-page_28.html 2026年3月)

震災が起こる前の小学校の校舎の風景。
この小学校は、著名建築家のアントニン・レーモンドに師事した北澤興一氏によって設計された。
弧を描くような配置の、レンガを使用したモダンな雰囲気をまとっている。
周辺には住宅が多く建ち並び、奥には北上川が流れている。のちにこの川が悲劇をもたらすことになる。

震災後の校舎(石巻市震災遺構大川小学校|海街さんぽ https://www.umimachi-sanpo.com/alp/ookawasyo/ 2026年3月)

震災後、RC造の小学校以外はほとんど跡形もなく流されてしまった。
災害危険区域になって人が住めなくなってしまったため、現在は住宅はない。

外壁のなくなった校舎(筆者撮影 2026年3月)

崩壊した渡り廊下(筆者撮影 2026年3月)

かつて体育館があった場所(筆者撮影 2026年3月)

校舎の外壁はその大部分が流されてしまっており、教室の中があらわになっている。
渡り廊下を支える柱が根元から折れており、体育館が跡形もなく基礎だけが残されている。往時の姿の遺構から、押し寄せた水の勢いが生々しいくらいに感じられた。

児童が描いた壁画(筆者撮影 2026年3月)

中庭(筆者撮影 2026年3月)

教室の黒板、児童が描いた壁画、花壇の残った中庭、建物は流されているけど体育館があったであろう場所に残ったステージの跡など、残されたモノからは津波が襲う直前まで子供たちが遊び学んでいた姿が容易に想像できてしまい、胸が締め付けられた。

 

アッセンブリーホール上部(筆者撮影 2026年3月)

アッセンブリーホールと呼ばれていた多目的室の上部にある筒状の天窓の外側には、津波が到達した高さまでその跡がついている。大人の誤った判断によって山ではなく川のほうへと避難した子供たちは、この高さの津波の壁を正面から受け、逃げる間もなく波にのまれていった。
どれほどの恐怖だったか計り知れない。

 

避難の判断が間違っていた原因はマニュアルの点検不足にあったそうだ。
この事例が特別だったわけではなく、同じような現状であればどの学校でも起こりうることである。
私たちは、今後このような悲劇を繰り返さないために、残されたこの場所で大川小学校の子供たちから大切なことを学ばなければいけない。

 

(名城大学佐藤布武研究室)

石巻市震災遺構 門脇小学校

宮城県石巻市震災遺構 門脇小学校

門脇小学校 外観
(筆者撮影 2026年3月)



宮城県石巻市にある震災遺構の門脇小学校は、東日本大震災の記憶と教訓を伝える施設。

地震発生から約1時間後、この地域には大津波が襲来し、その後津波火災も発生した。校舎には当時の被害の痕跡がそのまま残されており、震災の恐ろしさを伝えるとともに、日常のありがたさや命の尊さを改めて考えることができる場所となっている。

 

見学して最初に衝撃を受けたのは、当時のまま残されている校舎の様子である。

職員室や教室の中には物が散乱し、火災によって焼け焦げた跡もそのまま残っていた。まるで別世界のような異様な空間であった。

 

地震が起きた時間に遊びながら学ぶ理科の授業を行っていたクラスでは、机の上に椅子を乗せて教室の端に寄せてある様子がそのまま残されていた。そこにいた子供たちの姿が思い浮かぶほどリアルなものであった。

3年2組
(筆者撮影 2026年3月)



(筆者撮影 2026年3月)



 

また、門脇小学校に通っていた児童や先生、地域の人たちが当時感じたことや学んだことが言葉として数多く残されていたのも印象的であった。

想像もできないほどの恐怖や焦りがあったんだろう。一方で、助かった人が多かったからこそ、こうして多くの言葉が残されているのだとも感じた。

 

今回の見学を通して日々の学校生活や教育、地域との交流が大災害などの非常事態に大きく活かされるのだと学んだ。

実際に低学年から高学年までの縦割り活動での交流により低学年の子に気を遣えたり、真剣な避難訓練により、状況に応じて冷静に避難できたり、地域の人との協力があったりしたそうだ。

こうした何気ない日常の積み重ねが、非常事態時には人の命を守ることにつながるのだということを強く感じた。

いつか来るかもしれない災害に備えて、過去の出来事から学び続けることの大切さを改めて感じた。

 

〈参考文献〉

石巻市震災遺構門脇小学校  :   https://www.ishinomakiikou.net/kadonowaki/

 

(名城大学佐藤布武研究室)

 

岩手県大船渡市 長崎漁港

長崎漁港(岩手県大船渡市赤崎町長崎)

山側から漁港を見る(筆者撮影 2026年3月)

大船渡湾湾口の東側に位置するこの漁港では、ワカメやアワビ、ウニなどの採貝藻と小型定置網の漁業が営まれている。
漁港の対岸には陸となる地形がなく、山側から海を見た時に目に入るまっすぐな地平線が壮大で印象的であった。

1975年の空中写真(国土地理院 

https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/?data=histor

 2026年3月参照)

現在の空中写真(国土地理院 https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/?data=histor  2026年3月参照)

この集落では、低平地にあるいくつかの住宅は津波の被害を受け現在では石垣のみが残っているが、年代の違う2枚の写真を見比べてもわかるように、古くから建っているものも多く、現代まで継承されていることがわかる。

その理由は地形の特徴にあるのではないだろうか。

上に住宅が建つ崖(写真左側)(筆者撮影 2026年3月)

港と住宅地の境界には大きな高低差のある崖がそびえ立っている。この地域ならではの急峻な地形形状住宅を守ってきたのだと考えられる。このような急峻な地形は、三陸沿岸では珍しいのかもしれないが、それでも、この地に立つ建築物は、三陸の暮らしの継承を伝えるものなのかもしれない。

また、この高低差により後ろの傾斜が抑えられ、住宅地はそれほど起伏の激しくない。この傾斜のまま畑が作られていることも地域の特徴と捉えられる。

傾斜地にそのままつくられた畑(筆者撮影 2026年3月)

歩いていると、気仙大工によって建てられたであろう格の高い住宅も多くあったが、一方で質素な小屋も多い。これらの建築物は、石の瓦に木の縦板張りのものが多かった。周辺で手に入る材を使って自分たちの手で作るためだろうか。壁の一部がトタンになっているものもいくつか目にし、施工が簡単で潮風に耐える素材で作られている。

トタンと板張りの住宅(筆者撮影 2026年3月)

また、このような建築物は平屋か1.5階分ほどしか高さがない代わりに、高い位置に横に細長い窓がついている。小屋や物置という用途から、採光や通気を確保するためではないかと考えられる。

壁面上部につけられた横長の窓(筆者撮影 2026年3月)

住宅や小屋。この地域ならではの建ち方が紡がれた集落の景観。守られてきた景色と豊かな漁村に住み続けるための人々の工夫を肌で感じた。

 

(名城大学佐藤布武研究室三年・坂井奈月)