ムラはどこに形成されるのか:バイブルとしての「日本の景観」と「図説集落」
災害大国日本。
その中で家が果たしてきた役割は大きい。家は人間を外敵から守るものであり、近代化以前は自然に寄り添って暮らしてきたものでもあった。人はどこに住み、どういう安全性を確保してきたのか。ということは、ムラを考える上での原点とも言える。
さて、日本人はどこから住み始めたのか?
そんな問いを真っ当なロジックで噛み砕いて説明してくれている「日本の景観 ふるさとの原型」という書籍がある。土木と建築、ランドスペースを横断した良書である。
背表紙から引用。
「どの人にも共通して好ましいと感じられる日本の風景を「水の辺」と「山の辺」さらに「八葉蓮華」型景観、「隠国」型景観、「蔵風得水」型景観などのいくつかの典型に遡り、風景が包含する精神的また空間的な特性を、文学作品や絵画を引用しつつ細かく考察する。さらに日本の景観とヨーロッパの景観を比較検討するとともに、日々変化し続ける現代の都市に生き生きとした棲息地景観を作っていくための道を探る、景観高額の代表作。解説 芦原義信」
この本の面白いところは、「心地よい居場所はどこか」という視点からムラが見られている点。水が容易に得られたりといることはムラ成立の条件であるが、山の視点を加えている。山は厳しい気候条件から人々を守るのみならず、心を安らかにしてくれる母性のようなものを内包しているという。それゆえ、人は盆地に惹かれ、古都は皆盆地に立地している。
具体的には、「盆地」「山の辺」「谷」「平地」という居住形態を指摘している。
「山の辺」の起源はもっとも古いと考えられる。「山の辺」とはいわゆる山腹部の比較的標高が高い箇所である。交通が重要視される現代においてはそこまでわかりやすく考えることができないが、そもそも山は資源の塊であり、燃料であり食料を供給する生活に最も近い存在であった。まだ家を作る技術が低い頃は山は暴風から家を守ってくれるものでもあり、生活に切っては切れない存在であったのである。実際、長野の山奥や四国の高地集落など、古くからの文化圏は山間部にあり、現在でも力強い景観を残している。
ちなみに山間民族・日本人について、私の大学院時代の恩師は中国の少数民族や朝鮮族をはじめとするアジア各国の民俗建築との類似・相関性を指摘していた。平地の漢民族と山間民族では家の振る舞いも変わるという。この点はまた機を改めて触れたいと思う。
「谷」に居を構えるのは、極めて合理的である。山が居住空間を守ってくれ、かつ、沢から取水ができる。その為、沢沿いから居を構えるというのが基本である。
「山の辺」と「谷」とは、生きるための知恵が凝縮された居住環境で、同時に極めて縄文的な立地でもある。十分な耕地面積が取れないという難点も指摘できるが、期限をたどると農耕よりも狩猟や採集が重視されていたものだと考えられる。
さて、その後、農耕技術を身につけた日本人は、居を盆地へと移す。奈良も盆地だし、京都も盆地。こちらも伝統的な居住地と考えられる。ちなみに盆地では、稲作農耕が行える反面、洪水被害にも悩まされてきた。だから盆地の古くからの集落は、自然堤防と呼ばれる微高地上に位置していることが多い。盆地を歩いた際には是非微地形に着目していただきたい。一方で、そこは母なる存在であった山から離れた生活となってしまう。そこで、擬似的な自然としての庭園が発達したと論じられている。
関東平野に国の拠点を置いている現代の我々の視点からすると、平地が日本人の一般的な居住地と勘違いしやすいが、平地に降りてきたのは取水技術が格段に向上した江戸期以降と考えられている。我々は山間民族なのである。
もう1つ、「図説集落」という本もある。
こちらはさらに細かく、「山腹」「谷あい」「ふもと」「台地」「低地」「海辺」と分類している。
「ふもと」とは山裾を意味する。時代背景としては盆地に近い。山の恵みをいただきながらも農耕のい勤しむことができる立地である。
「台地」も面白い。水利に恵まれない同地は居住地としての文化は最も遅い。近世以降の開発村であることが多いが、中世期のものは酪農との関係が指摘できる。その土地に適した産業が選択されてきた事実を色こく教えてくれる。
「海辺」も最も古い居住の1つである。日本の漁村には起源をたどるとものすごい歴史的強度を誇る地域も多い。こちらも縄文的な集落である。
一重にムラと言っても千差万別。
成立過程から見てみると、ムラのストーリーがちょっと深く見えてくる。隣の村でも、ちょっと微地形を読み解くと、歴史の深度が違ったりする。その結果、上物の建築の文化の違いも見え隠れする。