ムラ・アイデンティティ

集落マニアによるブログです。「街の見方を知ったら、街はもっと面白くなる。」

厳しい気候にみんなで対抗する「塊村」:福島県会津若松市北会津町

今回は、集まって住む居住形態「塊村」のお話。

北会津町が立地するのは会津盆地。先の記事でも触れたように、盆地は、農耕を覚えた日本人が住み始めた土地。会津盆地の例外でなく、集落の起源を探ると、500年代や600年代はざらに出てくる。極めて歴史的強度の強い地域。

f:id:noblog-vl:20190303225937j:plain二日町集落。筆者撮影。

その中には、ポツン、ポツンと、緑に囲まれたムラムラが立地している。塊村は、寄せ合うように家々を連続させ、快適な住環境を成立させた地域。

実際に、冬の季節風を測ると、ガクンと集落内の風が弱まる。これは、連なった家や付属屋に加え、緑がムラを守っていることの効果。

 

もう一つ、面白いお話を。

盆地って、川に挟まれていたり、山からの水が集まる場所なので、成立は早いけど同時にずっと洪水被害に悩まされて来た地域でもある。だから人々は自然堤防と呼ばれる微高地上に住居を構えた。

盆地や平地のムラを訪れたら、どこが一番高いところか、フラフラ歩いてみると良い。あ、ここが最高点だ、と思ったところを見渡すと、結構格好良い建築が建っています。そこは安全だから、昔ながらの本家が立地していたりします。

北会津町の二日町という集落も洪水に悩まれされた歴史をもつ地域。集落内を散策すると、敷地が目線より高くなったりする。それは、人々が家を守るため、自然堤防に沿って土盛りをしたから。

 

f:id:noblog-vl:20190303230203j:plain二日町集落内部。筆者撮影

洪水になると、家の敷地内に色々なものが流れ込んでくる。だから敷地境界に緑を植えると、中が守られる効果もある。同時に、敷地内のものが流出するのも防いでくれる。更に緑は冬の季節風も和らげてくれるから、なお助かる。あ、冬には燃料にもなるな。家を建て替える時には使えるかも。子供がお嫁に行くときは桐箪笥も作れるな。そんな理由で、各世帯が家の境界に緑を植えていったら緑豊かな集落が出来上がった。

いやはや魅力的ですね、二日町。

ついでに言うと、ポツポツとした緑は、夏になると日陰をたくさんつくってくれて、ちょっと涼しくしてくれると言う効果も。

 

家の周りに緑を植える。そしてそんな仲間が一緒に暮らす。それだけでもちょっと屋外空間がリッチになるんですよ。

現代にも実に示唆に富む、ムラの教え。

古老の教えは実に奥深し。

厳しい気候から家を守る散居の知見。屋敷林と付属屋とカザライ。:山形県飯豊町

今回は「散居」という居住形態の話。

日本の村は家の連なりかたで様々な呼び方がされる。

家がポツンポツンと離れて立地している居住形態を「散居」と呼び、対して、群をなすものは「集村」と呼び、その中でも道に面しているものを「路村」、塊を成すものを「塊村」などと呼ぶ。

先の記事でもあげたが、日本人は山の辺や谷地、海辺に住み始めた。これらが縄文に由来する住み方だとすると、農耕を覚えた日本人は、次なる居住地として盆地を求めた。更に、治水技術が向上すると平地に進出する。

日本で有名な散居村として、

・砺波平野の散居村

・出雲平野の散居村

・長井盆地の散居村

があげられる。

上述のムラの立地を鑑みると、歴史的強度の強い散居村の一つとして、長井盆地の散居村が考えられる。

 

散居って、どんなところかというと、家が離れているからこそ、ひとつひとつの家で地域の気候風土に対応しているような地域。また、平地や盆地に発達するため、厳しい季節風と洪水被害に悩まされる地域。

お隣さん、がいないということは、強風を直に受けることになる。現在の高気密・高断熱の家と異なり昔ながらの家は隙間風もビュービュー。

だから、家の周りに緑を植え、敷地内の構成を複雑化することで、家を守ってきた。様々な固有名称をもつ屋敷林を敷地境界に巡らし、付属屋で家をまもる。そんな日本特有の景観を育んできた地域。

山形県飯豊町は、まさにそんな典型的な地域。

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厳しい気候の中で、家を守っている緑たち。

そして、木々の樹間には、さらなる美しい工夫も。

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これは、カザライという風除け。美しいカヤの境界。

これ、美しいだけでなく、とても機能的なんです。

冬の間、家を厳しい季節風から守ったカヤは、同時に非常に乾かされることにもなる。よく乾いたカヤは、そのシーズンの屋根の葺き替えに利用される。なんとも素敵な植物資源の循環。こういった気候への対応が、茅葺を守ってきた。

山形県飯豊町

これは、是非とも残していきたい、日本の景観です。

ムラはどこに形成されるのか:バイブルとしての「日本の景観」と「図説集落」

災害大国日本。

その中で家が果たしてきた役割は大きい。家は人間を外敵から守るものであり、近代化以前は自然に寄り添って暮らしてきたものでもあった。人はどこに住み、どういう安全性を確保してきたのか。ということは、ムラを考える上での原点とも言える。

 

さて、日本人はどこから住み始めたのか?

そんな問いを真っ当なロジックで噛み砕いて説明してくれている「日本の景観 ふるさとの原型」という書籍がある。土木と建築、ランドスペースを横断した良書である。

筑摩書房 日本の景観 ─ふるさとの原型 / 樋口 忠彦 著

 

背表紙から引用。

「どの人にも共通して好ましいと感じられる日本の風景を「水の辺」と「山の辺」さらに「八葉蓮華」型景観、「隠国」型景観、「蔵風得水」型景観などのいくつかの典型に遡り、風景が包含する精神的また空間的な特性を、文学作品や絵画を引用しつつ細かく考察する。さらに日本の景観とヨーロッパの景観を比較検討するとともに、日々変化し続ける現代の都市に生き生きとした棲息地景観を作っていくための道を探る、景観高額の代表作。解説 芦原義信

 

この本の面白いところは、「心地よい居場所はどこか」という視点からムラが見られている点。水が容易に得られたりといることはムラ成立の条件であるが、山の視点を加えている。山は厳しい気候条件から人々を守るのみならず、心を安らかにしてくれる母性のようなものを内包しているという。それゆえ、人は盆地に惹かれ、古都は皆盆地に立地している。

具体的には、「盆地」「山の辺」「谷」「平地」という居住形態を指摘している。

「山の辺」の起源はもっとも古いと考えられる。「山の辺」とはいわゆる山腹部の比較的標高が高い箇所である。交通が重要視される現代においてはそこまでわかりやすく考えることができないが、そもそも山は資源の塊であり、燃料であり食料を供給する生活に最も近い存在であった。まだ家を作る技術が低い頃は山は暴風から家を守ってくれるものでもあり、生活に切っては切れない存在であったのである。実際、長野の山奥や四国の高地集落など、古くからの文化圏は山間部にあり、現在でも力強い景観を残している。

ちなみに山間民族・日本人について、私の大学院時代の恩師は中国の少数民族朝鮮族をはじめとするアジア各国の民俗建築との類似・相関性を指摘していた。平地の漢民族と山間民族では家の振る舞いも変わるという。この点はまた機を改めて触れたいと思う。

「谷」に居を構えるのは、極めて合理的である。山が居住空間を守ってくれ、かつ、沢から取水ができる。その為、沢沿いから居を構えるというのが基本である。

「山の辺」と「谷」とは、生きるための知恵が凝縮された居住環境で、同時に極めて縄文的な立地でもある。十分な耕地面積が取れないという難点も指摘できるが、期限をたどると農耕よりも狩猟や採集が重視されていたものだと考えられる。

さて、その後、農耕技術を身につけた日本人は、居を盆地へと移す。奈良も盆地だし、京都も盆地。こちらも伝統的な居住地と考えられる。ちなみに盆地では、稲作農耕が行える反面、洪水被害にも悩まされてきた。だから盆地の古くからの集落は、自然堤防と呼ばれる微高地上に位置していることが多い。盆地を歩いた際には是非微地形に着目していただきたい。一方で、そこは母なる存在であった山から離れた生活となってしまう。そこで、擬似的な自然としての庭園が発達したと論じられている。

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関東平野に国の拠点を置いている現代の我々の視点からすると、平地が日本人の一般的な居住地と勘違いしやすいが、平地に降りてきたのは取水技術が格段に向上した江戸期以降と考えられている。我々は山間民族なのである。

 

もう1つ、「図説集落」という本もある。

https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%B3%E8%AA%AC-%E9%9B%86%E8%90%BD%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%A9%BA%E9%96%93%E3%81%A8%E8%A8%88%E7%94%BB-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%AD%A6%E4%BC%9A/dp/4924720089

 

こちらはさらに細かく、「山腹」「谷あい」「ふもと」「台地」「低地」「海辺」と分類している。

「ふもと」とは山裾を意味する。時代背景としては盆地に近い。山の恵みをいただきながらも農耕のい勤しむことができる立地である。

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「台地」も面白い。水利に恵まれない同地は居住地としての文化は最も遅い。近世以降の開発村であることが多いが、中世期のものは酪農との関係が指摘できる。その土地に適した産業が選択されてきた事実を色こく教えてくれる。

「海辺」も最も古い居住の1つである。日本の漁村には起源をたどるとものすごい歴史的強度を誇る地域も多い。こちらも縄文的な集落である。

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一重にムラと言っても千差万別。

成立過程から見てみると、ムラのストーリーがちょっと深く見えてくる。隣の村でも、ちょっと微地形を読み解くと、歴史の深度が違ったりする。その結果、上物の建築の文化の違いも見え隠れする。

小さな浜の大きな背中のお話:宮城県石巻市桃浦

集落を訪れ続ける理由。

それは、地域を愛する人々からお話を聞く幸せを蓄積したいから。

そして、美しい集落が継承されて欲しいという願いを込めて。

 

今回は桃浦のレジェンドのお話。

実はこの人、圧倒的な漁獲をしたこともある伝説の船長。

宮城に彼あり、と言われ、日本から3艘だけの遠洋漁業の船長に選ばれ、そしてその中でいちばんの漁獲をあげた、世界を股にかけた船乗り。

もう一つの逸話。

「戦時中、2艘でアメリカに向かう道中、自分の船はたまたま呼び戻されて延泊した。だけど同じ目的地に向かっていた仲間の船が米軍の水中爆弾の実験に巻き込まれてしまった。たまたま生かされたなぁ」とさらっと話してくれる。

そして、いろんな経験を経て、ようやく生まれ育った浜で自由気ままな老後の生活を過ごしていたら、東日本大震災の被害にあった。

自分の家は床上浸水。でも親戚の大工さんに頼んでなんとか改修ができた。

そんななか、震災で約1/10まで人口が減ってしまった集落。突如訪れた超限界集落としての故郷。生まれ育った、愛する浜が継続して欲しいという願いから、2013年、集落外から人を呼び込む取り組みを始めた、当時84歳、今年で90歳の浜の長老。

http://hamatsukuri2013.sakura.ne.jp/indexn.html

なんでこんなことするんですか?と聞いたとき。

「だって生まれ育った浜だから。世界の海を見てきたけど、こんなにいいとこ他にはない。自分ができるのは震災後、次の世代に浜を残していくための種を植える作業だけ。いつか芽が出て花が咲くのを願って、いま自分にできることを続けているだけだ。」

できる限りこの人の歩みにご一緒したいな、と思い、一生懸命、志を継ぐ活動をしてきた。

http://www.momonouravillage.com/

https://triton.fishermanjapan.com/

気がついたら漁師を募集する小さな浜から始まった取り組みは、石巻全域に拡がっていき、視察にきた人々が更に拡げていってくれている。

「こんなに嬉しいことはない。」

昨夜、酒を酌み交わしているときに言ってくれた。

人生のイロハを叩き込んでくれた大先輩。まだまだ学ばせてもらいたいですね。

津波とムラ:岩手県陸前高田市広田半島・根岬集落

地震大国の島国、日本。

水産資源に恵まれたこの国は、同時に津波と戦って来た地域でもある。

津波の被害を受けると色々な策を講じる。

明治時代、明治三陸津波の被害を受けた人々は高地に家を移したという。しかしながら、漁業の利便性を求めて人々は再び海の近くに住み始める。そして昭和の津波の影響を受ける。

そんなことを書いている本が、山口弥一郎による「津波と村」。

www.miyaishoten.co.jp

時代が流れてチリ津波後に防潮堤ができて、津波から守られていると感じた人は、三度海の近くに住み、今回の津波被害を受けてしまった。

一方で、明治の頃から津波被害の知見を伝え、海の近くに住まず、東日本大震災での住宅被害を受けなかった地域もある。

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津波で多くを流された三陸沿岸部において、気仙大工の仕事が残る集落はそこまで多くない。根岬は、気仙大工の仕事とともに、先人の津波への備えの技術も伝承する数少ない地域。

 

民宿のおやっさんにお話を聞くと、更に興味を持つ情報も。

調べると調べるほど、個性豊かな集落だな、と痛感する。

島国日本の先人の知恵、大切に継承していきたいですね。

大切なものを守る場所「クラ」の知見:宮城県石巻市北上川沿いと岐阜県安八町

近年、身近なものではなくなりつつあるクラ。

自分にとっても原体験としては存在しておらず、例えば鑑定団などのテレビの世界で掘り出し物を見つけられたり、子供向けアニメの世界で閉じ込められたり、といったところが記憶にあるもの。

でも、古くから、クラは人々の生活に密接に関わってきた。山形出身の親に聞くとクラに閉じ込められた思い出が語られる。

クラと呼ばれるものには倉と蔵がある。今回はそれら2つのお話。

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北上川沿いの板倉。木でできたクラ。

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岐阜県安八町の土蔵(水屋)。土でできたみんなが思い浮かべるクラ。

 

コメグラ、ミゾグラ、イショウグラ。

これは3つ並んだクラの違いを聞いた時に住民から帰ってきたフレーズ。

実は入れるものによってその建築的特徴は変わってくる。

上記2つのものも、役割が異なっている。

まず、1つ目の板倉。これは基本的に木の調湿作用を有効に活用したコメを収蔵するためのクラ。

木でできたクラを倉と呼ぶ。

起源を辿ると穀倉で、弥生時代の高床式倉庫に至るとの説もある。

大切な食物資源を守るもの。

ちなみに写真の北上川沿いは洪水のリスクがある箇所。

そのため、地域に多く存在する板倉はどれも母屋よりも小高い丘の上にある。

万が一が起きても食糧難にならない、という先人の知恵。

 

2つ目は水屋と呼ばれる洪水対策としての蔵。

こちらは板倉よりもわかりやすく石垣の上にある。輪中と呼ばれる自然堤防上の、更に上部に作られた石垣の上。入念な対策。

こちらは米も貯蔵する場合もあるが、主として衣装や日用品。そして洪水時に人が逃げ込むことも想定されていることもある。

 

小さなクラ。されどそこには先人の知恵が見え隠れする。

 

ちなみにクラは、比較的資産に余裕がある、コメがたくさん取れる地形条件で発達する。さらに、板倉は東北や北関東の豊かな木材資源の地域が多い。土蔵は東北でも見られるが西日本に多い。古くは戦で禿山が多くなってしまった西では、土を使ったクラが発達したとの試論も見られる。純粋な調湿効果としては木の方が優位性が高く、土蔵を見せてもらうとその中に木の囲いが内包されるものも散見される。

 

みなさんもクラを見つけたら、あぁ、これにはどんな意味があるのだろう?

と考えてみては?

家を壊してもクラは壊すな。先祖が大切に守ってきたものだから。と言い伝えられ、母屋がなくなったり新しくなっても、クラは先祖代々という例は多い。

大切なものをしまう場所だからこそ、いろんなストーリーがあるはず。

ムラの共通項:三重県尾鷲市の石垣

ムラ歩きで最も基本となる視点は、街の「共通項」探し。

一つのムラでおんなじような特徴が見られたら、それはそのムラの特色かもしれないし、隣り合ったムラでも一緒だったら、それはきっと地域規模での特色なのだろう。

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同じ方向の屋根が並ぶ景観。筆者知人撮影。

屋根の方位で最も有名なのは白川郷の屋根の向き。現在の白川郷の屋根の方位はみんな東西を向いている。

それが南北になると...、

豪雪の白川郷では、片方の屋根だけ雪が残り、屋根が片方だけ急激に腐っていく。そして建築が朽ちてしまうから、現在の方位に落ち着いていると言われている。実際に一度間違った方位で移築された民家は、程なくして方位を揃えることになった。そして、間違った方位で家が建ったとき、他の世帯はすぐに気づいたという。そして地域の景観の問題として扱われた。

今回の漁村の屋根向きがなぜこうなのかはまだ調べていないが、特徴的ではあった。

 

他の例を挙げるとしたら「蛇口」。

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写真は高知の漁村。筆者撮影。

漁村を歩いていると家先に蛇口がついていることをよく目にする。魚を家の外ですぐに捌けるように、という話を聞いたこともある。真相は地域によるのだろうが、漁村ならではの共通する振る舞いであり、それらが表出したものとして、「蛇口」があるのだろう。

 

さて、三重を歩いていて気になったのが、3-4m程度ある「石垣」。

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実はこれも災害対策。実際にとある集落の石垣には、昭和の東海地震津波の波高が書かれていた。漁村の石垣は、実は街を守ってくれたツール。

今でいう高台移転地。

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 建築や景観は、時に地域の歴史や文化を雄弁に語ってくれる。